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小林信也 (こばやし のぶや) |
昭和31年生まれ 新潟県長岡市生まれ 作家・スポーツライター |
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小林信也が書く 小林信也の歩んできた道 |
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少年時代 |
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雪国・長岡で生まれ育つ。母親が高校教師だったので、いわゆる『鍵っ子』だった。学校から帰ると、ひとりで塀を相手にボール投げをする日々。冬になって雪が積もると、積もった雪の上をゴム長靴で走っていた。いつか甲子園で投げる姿を思い描きながら。町内に『河井継之助生家』と立て札のある古家があったが、それが誰かを知るのは30代の半ばを過ぎてからだった。 |
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高校時代 |
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新潟県立長岡高校で念願の高校野球を始めるが、監督の厳しさに挫けがち、耐え忍ぶ毎日だった。1年の夏、アンダースローに転向。2年春にはエース・ナンバーをもらうが、それが絶頂。3年春、県大会で優勝するも夏の予選は早々に敗退。いま新潟明訓高校の監督を務める佐藤和也が女房役だった。野球が終わると中学時代同様フォーク・バンドを再開。受験勉強に身を入れはじめたのは、告白した相手に振られた晩秋になってからだ。小学生時代はもてたはずだが、自分が「好きだ」と思う相手と相思相愛になったことがなく、いつも振られてばかり。いまだにその劣等感が消えず自分を支配している。 |
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大学時代 |
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長嶋引退に刺激され、大学でも野球をやろうと志す。運良く慶應大学に合格、第一合宿所のメンバーに選ばれるが、春休みの練習で挫折。入学式の前に退部してしまった。かねて憧れのシンガーソングライターを目指し、ヤマハ・ポプコンなどに自作の歌を応募するが音沙汰無し。すぐ限界を悟る。それからの一年は目標を失った上に孤独な東京暮らし。人生で初めて自分の存在の小ささ、無力さを痛感した。2年の春、突如フリスビーを始めて人生が変わり始める。翌春にはひとりでアメリカ武者修行に出かけ、フリスビーを通じて自由闊達なアメリカのスポーツ風土、芝生文化に衝撃を受ける。 |
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原稿を・・・ |
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アメリカから帰国してまもなく、創刊間もない雑誌『ポパイ』から、フリスビーの連載コラムを書かないかと依頼があった。直後に特集ページの原稿も書かせてもらう。それをきっかけに、以後ポパイ編集部に泊まり込み、スポーツ関連の原稿を書きまくる生活が約2年間続く。 |
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社会人 |
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大学卒業と同時に、本格的にスポーツ科学を学ぼうと留学をもくろむも単位が合わず断念。やむなくカイロプラクティック学校に入学。そこで白石宏と出会う。翌年は筑波大学の体育研究室研究生として過ごすが、研究の世界と自分の落差を痛感し、一年で帰京。 |
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ナンバー |
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25歳を前に再び書き手の道にチャレンジすべく創刊1年目の雑誌『ナンバー』編集部に押しかける。見ず知らずの僕に快く会ってくれた岡崎満義編集長に「自分のことを書いてきなさい」と言われ、猛烈な勢いで書く。それがナンバーに掲載され、編集部に机を置かせてもらうことになる。 |
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それ以後の紆余曲折は『カツラーの秘密』にも書いてありますが、またいずれ、
このページにも掲載します。 |
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